真駒内

北海道開拓期には種畜場が広がり、1972年の札幌オリンピックの主会場として本格的開発が始まった真駒内界隈。現在では平穏な住宅地として人気を集める。

SCROLL DOWN

 

 

ひとやすみする輪廻

丸山 隆

 

地下鉄南北線の始終点駅の真駒内駅前にある
丸山隆のブロンズと自然石を組み合わせた作品

南区の札幌芸術の森がオープンした記念に制作・設置された。
作品名は札幌冬季オリンピックが終わって一休みの意味を込めた。

参考:http://hikyou.sakura.ne.jp/v2/2017/12/post_4511.html

 
 

エドウィン・ダン像

峯 孝(助手:高野 寛)

 

真駒内泉町1丁目、エドウィン・ダン記念公園にある像。
昭和39年(1964年)10月に制作された。
かたわらの副碑に建立の由来が書かれている。

エドウィン・ダンは明治6年(1873年)、開拓使に雇われたアメリカ出身のお雇い外国人で、
北海道酪農の父といわれている。真駒内牧牛場(後の種畜場)で米国式の近代牧場を指導。
明治15年(1882年)開拓使廃止で、帰国したが妻つると巡り合った日本を忘れ難く、
明治17年(1884年)駐日米国公使として再来日。
昭和6年(1931年)84歳の生涯を日本で閉じた。

参考:https://www.city.sapporo.jp/minami/ishibumi/chiku0524.html

 
 

花束(一対)

本郷 新

 

札幌冬季オリンピックの記念碑群のひとつ。一対の作品。
真駒内の広大な空間を走る五輪大橋の橋畔に建つという条件を意識して制作された。

制作者の本郷新はこう語っている「マントの三角錐を主体に、頭部の半球体、
脚部の円筒形、人物像であると共に構築物でもあるようにしたかった。
橋の左右に建つ二つの異なる形態を一つにするために、北側に建つ像も南側に建つ像も、
同じ方向に傾斜させた。 こうすると、風のない日でも、
豊平川を渡ってくる北風のいたずらが感じられはしまいかと考えた。
像はブロンズの上に純金箔を3回重ねた。それは、白一色の冬には白と金、
緑一色の夏には緑と金という色彩の効果を考えてみたからだ。」

参考:http://www7b.biglobe.ne.jp/~hashi-sculp/Museum/makomanai/256/256.html

 
 

栄光(一対)

本田 明二

 

札幌冬季オリンピックを象徴し、しかも札幌的なものを、
と与えられたテーマにそって、いく度も現場を見た本田明二が
「この風景の中に耐えられるものは、肌の荒い、
大きな白い石の塔のようなものでなければ…」と、最終的に結論付けたのが、男女が月桂樹を持った
〝こけし〟のような、単純なフォルムだった。

「夏は緑の中にくっきりと浮かび上がる白い線。冬は雪で作られた彫刻のように立つ白い石。
そんなことを考えながら、夏のぎらぎら輝く太陽の反射を受けながら、
石を刻んだ」と作者は語っている。本田明二には珍しい石彫作品。

参考:http://www7b.biglobe.ne.jp/~hashi-sculp/Museum/makomanai/259/259.html

 
 

えぞ鹿

佐藤 忠良

 

札幌冬季オリンピックを記念して制作された。
札幌ゆかりの彫刻家4人による競作作品のひとつ。

「雪の峰に立ちて娘、神話のラッパ(ギリシャのレリーフに出てくる2本組の笛)を
掲げ奏でれば、ファンファーレは山々にこだまして響き渡る」

参考:http://www7b.biglobe.ne.jp/~hashi-sculp/Museum/makomanai/264/264.html

 
 

飛翔(一対)

山内 壮夫

 

昭和47年(1972年)2月に行われた、冬季オリンピック札幌大会を記念して、
前年に制作された作品。 1960年以降にみられる〈飛翔〉シリーズ作品のひとつ。
男性像は、オリーブの冠をかぶり、唇を一文字に結び、
胴の横に風の抵抗を最小限にすべく両手をそろえ、目をまっすぐに見据えて飛翔する。
勝利を確信するかのように…

冬季オリンピックの華〟といわれるスキージャンプ競技の飛行をイメージさせるブロンズ像。
スキー本体は省略されているが、風にはためきふくらんだ着衣がスピード感を象徴的に表現している。
作家は「飛翔―この主題は私の好きなテーマ」といい、「天翔けるほんの数秒間の極限に緊張した体型は、
人間の体躯そのものが持つもっとも美しいものだと思う」と述べている。

参考:http://www7b.biglobe.ne.jp/~hashi-sculp/Museum/makomanai/261/261.html

 
 

牛と少年

佐藤 忠良

 

「跳ね上がるような元気な明るさを、少年と子牛に託してみたかった作品である」

《真駒内種畜場之跡》の碑の建つこの付近一帯約3千ヘクタールの地は、
明治9年(1876年)、開拓使のお雇い米国人エドウィン・ダンが牧牛場として開墾して以来、
昭和21年(1946年)まで約70年間にわたって
北海道庁種畜場として牧畜の試験、指導にあたった所。

参考:http://www7b.biglobe.ne.jp/~hashi-sculp/Museum/5minamiku/265/265.html